私は、福島の病院に入院中、自分自身のことを思いながら「夢」という詩を作りました。その一部を朗読します。

 「外に出たい かごの鳥
毎日えさを ついばむ
可哀想だ
しかし 私もかごの鳥
私も同じ運命
毎日食事をし
いつものスケジュールをこなす
早くこの病棟から出たい
    (途中略)
   新しい生活、病院にない
   空気を思いっきり吸いたい」

 私は、10代後半から入院生活をさせられることになりました。私の入院生活は、本当に長かったです。東京での入院期間を含めると40年を超えます。
 入院中の生活は、かごのなかの鳥のような生活でした。
 病院から外出しようとしても許可が必要でした。自分の意思だけで好きなように外出することはできませんでした。
 外出できたときも、近所の目は冷たかったです。近所の人から「うちの前を通らないでもらえますか」と言われたことは、ショックで今でも覚えています。
 病棟内でも、何をするにも看護師などから監視されている生活でした。自分ひとりの自由はありません。
 福島の病院では、院外作業として、養鶏場でニワトリのふんを処理したり卵を洗ったりする仕事をしました。プラスチックの部品工場でも働きました。その後、院内作業として、病院内の厨房で皿洗いや盛り付けをしたりもしました。それらの作業をして、私がもらえるお金はわずかでした。
 それでも私は、ここで一生懸命働いていれば、いつかは退院させてもらえると思って、まじめに働き続けましたが、一生懸命働いても退院させてくれませんでした。私から退院したいという気持ちを伝えたことは何度もあります。それでも退院が実現することはありませんでした。
 不自由な生活のなかでも、父親だけは面会に来てくれていました。幼いころに実の母親と死に別れた私にとって、大切な存在でした。父親が病院に来てくれることは私の入院生活での楽しみでもありました。しかし、私はそんな父親の死をすぐには知らせてもらえませんでした。1年以上も後になって、義理の母から父親の死を伝えられました。私は、大切な父親の死に目にも立ち会えず、葬式にも立ち会えなかったことに呆然とするしかありませんでした。

 長期入院は、私だけの問題ではありません。私は入院期間が10年以上の人たちをたくさん見てきました。なかには、退院したいと言ったら看護師にダメと言われたことで絶望して常磐線に飛び込んで自殺をした女の人もいました。その女の人は入院期間が13年でした。開放病棟にいた人で、自殺は病気が原因ではありません。退院できないことの絶望感です。
 私は自殺という手段を選ぶことはしませんでしたが、その人の気持ちはよくわかります。
もうこれ以上、そういったことは起きてほしくありません。だから、私は、裁判を起こすことを決心しました。

 私は、たまたま東日本大震災が起きたことがきっかけで、60歳を過ぎてからやっと「かご」から出ることができました。今は、自由に自転車ででかけて、自由に買物ができる、人間らしい生活が送れるようになりました。しかし、まだ「かご」のなかから出られない人はたくさんいます。この裁判で、少しでも日本の精神医療が変わり、そういった人たちの役にたてるようになればと願っています。